乳がんのこと 第2幕~レントゲン写真と細胞診のプレパラートをもって、 少しドキドキしながら順番を待っていました。 わたしの名前が呼ばれ、診察室に入るとT先生は 笑顔でわたしを迎えくれました。 この笑顔を見て私は、 「ああやっぱりここにきてよかった。 この先生に会えてよかった。この先生に主治医になってもらおう」 と再度心に決めました。 それほどT先生の笑顔は優しくて、 ホッとするものがありました。 (その後、T先生は笑顔も然ることながら、人間性も すばらしいドクターとわかりました) K病院での資料をみて、T先生は 「ほぼ悪性に間違いないと思います。どうしますか? このままこちらで治療をしますか? 手術はもちろん温存でいけますよ。 センチネルもしたほうがいいですね」 「はい、お願いします。こちらでこれからお世話に なりたいと思います」 ちらっと頭のすみにK病院の先生の顔がよぎったものの、 自分の体、自分の命、ベストな道は自分自身で決めるもの と思っていたので、もう迷いはありませんでした。 K病院に変え安堵したのもつかの間、手術を受けるかどうか、 急に迷ってしまいました。 体にメスをいれると気の流れが滞るし、 麻酔だって体にどんな影響があるやもしれないし。 温存といってもどこまで胸の形が変るかわからないし・・・。 代替療法でなんとかやっていけないだろうか、 などと考え始めるとなかなか決心がつきませんでした。 それでも自分のことは自分で決めなくてはいけません。 診察のたびに、何度も主治医となったT先生に質問し、 説明を受け、そうしてやっと手術をする! と腹が決まったのです。 もっと詳しいデータをそろえる必要が あるということで、すでにK病院で受けた ・マンモグラフィー ・胸部エコー ・肺のレントゲン これらをもう一度取り直し、 さらに ・骨シンチ(骨転移を調べる) ・内臓エコー ・胸部MRI ・肺機能検査 そして、生検と盛りだくさんでした。 この頃、パートとはいえ仕事をしながらの 病院通いだったので、もう毎日くたくたに疲れ、 病気を治すために必要な検査とはいえ、 体を酷使しているようで、何だか腑に落ちない 心境になったこともありました。 もう面倒くさいーーー。 手術も何もかもやめちゃおうか。 いっそのこと全摘してさっぱりしちゃおうか。 精神的にもかなり参っていました。 これは試練なのかな、それとも罰なのかな。 そんな風に考えることもありました。 不思議と「死」というものに関しての恐怖心はありませんでした。 「死んでも向こうでパパに会えるし。」 決して生きることをあきらめたわけでもなく、 死にたいと思ったわけでもなく、 死は怖いものじゃないと、何故かそう思ってました。 検査の結果は白星を重ね、多臓器への転移はまずないとのことでした。 それだけでも少し気持ちが晴れてきて、 「親より先に死ぬわけにはいかないから、 ママを残していくわけにはいかないから。 パパ、見守っててね・・・」と残りの検査も なんとか前向きにこなしていくことができました。 という言葉を聞いてから、やっとあちこちに報告する気になり、 まず、実家の母に話すことにしました。 心配かけるだろうなーと思い、ためらっていたのですが 話さないわけにはいきません。 隠し通せるものではないし、いつか耳に入ることです。 母の気持ちを考えたら、事実を知ることよりも、 娘の病気を知らないでいることの方がずっと 辛いだろうと思いました。 ちょうど母から電話があったので、 「この間しこりが見つかって、いろいろ調べてもらったら 悪性なんだって」 「えーーー、そうなの!」 「うん、もうね、セカンドオピニオンにもいって、 S病院で手術することに決めたから。 主治医の先生もとてもいいDr.だし、 これからまだ検査が続くけど、早期だから温存できるし 心配ないって。」 「そう・・・。早期のうちに見つかってよかったね。 いい先生にもめぐり会えてよかった」 努めて平静を装って普通に話そうとしているのが 伝わってきて、申し訳ない気持ちでいっぱいになって しまいました。 『たいした親孝行もしてないのに、こんなに心配かけちゃって・・・ パパが食道がんで死んでから、2年しかたってないのに今度は 私もだなんて・・・』 「痛くも痒くもないし、しこりもまだ小さいから リンパに転移もないし、手術したらもうそれで大丈夫だと思うよ」 「そう、よかった。でも無理しなさんな」 「あいーー。手術は来年も1月5日だって。 仕事はとりあえず年内はぎりぎりまでやるつもり。」 「無理しないでね」 「はーい」 次の日、夫の母からタイミングよく電話がかかってきました。 「久しぶりだけど元気にしてるの?」 「はい、元気ですけど、乳がんですって。」 「えーーーーー!!本当なの!? もうはっきりわかったの?」 「はい、セカンドオピニオンもとって、 悪性に間違いないそうです」 「あらー。何ていっていいのか・・・。仕事は辞めたの?」 「いえいえ、体調はいいので、年内ぎりぎりまで続けます」 「そんな無理しないほうがいいんじゃないの?」 「大丈夫です。気分転換にもなるし」 「そう、お父さんに言ってもいいんでしょ?」 「いいですよ。ちなみに手術は来年の1月5日です」 「とにかく無理しないで、何かあったら電話してね」 「はい、ありがとうございます」 ご心配おかけして申し訳ありません・・・・・。 ふぅ~。 病気になるって、自分だけが辛いんじゃないんだよね。 こんな報告される方が何倍も辛いんだよね。 次は会社への報告です。 仕事を教えてもらっている先輩に、病気のことを伝えました。 とても頼れる、それでいてユーモアのセンスのある、 素敵な女性で、上司よりも先に話をしておこうと思いました。 朝礼が終わり、席につく前に、 「先輩ちょっといいですか・・・・」 「ん?どうした?」 「実は胸にしこりが見つかったので、検査したら悪性って でちゃったんです。セカンドオピニオンも受けて、 そこでも間違いないと言われました。」 「・・・・・。そうなの・・・。そっか、わかった。 仕事はできるの?続けられるの? 体調悪かったら無理しないで休みなさいよ。」 「ありがとうございます。体調は悪くないので大丈夫です。 でもまだ数回の検査があるので、お休みしなくちゃいけないんです。」 「大丈夫だよ。休みはこっちで調節するから。」 聞けば先輩のお母様は、子宮ガンを経験されているそうで、 私の病気のことも、とてもよく理解してくれました。 上司への報告は、先輩が同席してくれることになりました。 誰もいない会議室に入り、私の向かい側に 上司と先輩が座りました。 少し緊張していたのか、何から話をしたらいいのか少し迷い、 いきなり、 「悪性なんだそうです」と切り出してしまいました。 先輩が、「何が悪性なのか説明しないと」と 助け舟をだしてくれ、 「あ、そうでした。 実は、胸にしこりが・・・」 となんとか一通り説明することができ、 入院手術で1ヶ月はお休みしなくてはいけないこと、 そして、その後復帰してまた働きたいことなどをお願いしました。 上司もとても理解ある人で、 「有給をめいっぱい使って、その後は欠勤扱いになっちゃうけど、 復帰できるように上には話しておくから。 まず、しっかり体を治すこと。」 と言ってくれました。 上司や先輩の優しさがうれしくて、 思わず涙がこぼれてきてしまい、 それをみた先輩も泣きながら 「きっと戻ってきて、また一緒に仕事しようね」 と声をかけてくれました。 これから仕事だというのに、目も鼻も真っ赤になり、 他の同僚達には知られたくなかったので、 急いで化粧室にいき、顔を洗いました。 その日の仕事が終わり、同期のA子ちゃんにだけ 病気のことをそっと伝えました。 「何かできることがあったら遠慮しないでいってね。」 「ありがとう。K課長とH先輩と、同じ仕事してる人達以外には 言わないでおこうと思ってるの。だから内緒にしてね」 「わかった。誰にもいわないよ。」 信頼できるA子ちゃんだからこそ、 伝えたのですが、彼女はその期待を裏切らず、 そして今もずっと、私を支えてくれています。 以前からの親しい友人達には、 年賀状に書き添えることにしました。 直接反応を受ける余裕もなかったし、 おおごとにしたくないという気持ちが強かったからです。 正直にいうと、心配をかけたくないという気持ちの他に、 別の感情もありました。 へたに同情されたりするのが嫌だったし、 「大丈夫だよ」なんて、経験したこともない人に 軽々しく言われたくなかったし、 「ガンにはこれが効くんだよ」と、あれこれ勧められるのも、 面倒で嫌だったのです。 一番の重荷は、心配されすぎることでした。 心配されすぎることで、こちらの不安も増大し、 自分が悪いことをしているかのような気持ちに 追い詰められてしまうのです。 まったく心配されないのもなんだか物足りない気もするし、 われながら自分勝手だなと、と思いましたが 思いやりっていうのは、自分が主役じゃだめなんだな、 とたくさんの人の反応をみて、勉強させてもらいました。 毎日が検査と仕事と主婦業とあわただしく過ぎていきます。 一時のショックも時間とともに和らぎ、 これからはよくなる方向へ向かうだけだという気持ちになり、 むしろ入院する日が楽しみとさえ思うようになりました。 会社へは最終日まで出勤するつもりでしたが、 25日に最後の1泊検査があるため、 きりのいいところで20日を最後に、1ヶ月の休職をする ということで仕事収めとなりました。 年末の大掃除はパスするにしても、ボーっとしてるわけにはいかず、 私が入院している間、夫が使いやすいようにと、 家の中の片付けをしたり、レトルトなど簡単に食べられるものを 買い出ししておこうと思い、やっぱり毎日ばたばたしてました。 大晦日の日、夫と二人で年越しそばを食べながら、 「今年はいろんなことが重なったよね。 だーりんのアトピーがひどくなっちゃって大変だったし、 その後、puaのママが入院して仕事と病院通いで大変だったし、 そして、今年最後の締めくくりは私だもんねー。」 「来年はきっといい年だから。」 「そうだねー」 なんとなくお風呂で胸を見たときに、 今までは温存だからそんなに悲観はしていなかったのに、 でも、この胸にメスが入るんだ。。。 わたしのおっぱいちゃん、 痛い思いをさせてごめんね。 形だってこのままっていうわけにはいかないし、 もう傷のない胸とはさよならなんだね、 と思うと、涙が後から後からあふれて、 そのたびにお風呂のお湯でじゃぶじゃぶ洗いながら、 また泣いて、嗚咽がとまらなくなってしまいました。 年が明け、私にとって2004年はまさに ”新しいスタートの年”となりました。 「明けましておめでとう~。 今年もよろしくぅ~。」 午後になって夫の実家に寄って、義両親に挨拶をしてから 私は一人で自分の実家へ向かいました。 母は2人前のおせち料理を用意してくれていて、 元旦の夜、母娘水入らずで過ごしました。 心配かけてしまう分、元気な顔をたくさん見せておきたい、 そう思い、夫に元旦は実家に帰りたいとお願いしておいたのです。 みんな、みんなありがとう。 病人だからって甘えてばかりはいけないけど、 でもいまだけ、 いまだけは甘えさせてね。 NEXT ジャンル別一覧
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